私が国循で働くようになったわけ
平成23(2011)年8月上旬ごろ、私は、当時の上司である松村泰志先生(大阪大学医学部附属病院医療情報学講座教授)から教授室に来るように言われました。
そのころ,私は,平成23年3月から松村教授の下で准教授として仕事を始めたばかりの時期でした。松村教授の主宰する研究室は私の出身母体であり,ある程度勝手はわかっていたつもりだったのですが,学位取得後,私は他大学の教員を7年ほど務めていましたので,そのころは,知らぬ間に大きく変わった阪大の病院情報システムのことなどを勉強したり,大勢いる同僚たちとコミュニケーションしたりするのに,まだ慌ただしさの残る時期でした。
教授室に入ってみると,松村教授の顔からはいつものにこやかな表情は消え,彼は,やや困惑したような目つきで私を見ていました。
松村教授からは,
実は、国循から、桑田君に医療情報部長として来て欲しいという話がある。私としては、今年、ようやく阪大に戻ってきてもらったばかりの桑田君をすぐに外に出すのはどうかと思うが、前教授が桑田君を推薦しているということもあるし、これは昇進ともいえるので、一度考えてみてもらえませんか。
と話を持ちかけられました。
その後、松村教授から詳しく話を聞いたところによると、
- 国循は平成24(2012)年1月初旬に病院情報システムのリプレースを控えており、そこで初めて電子カルテを導入する予定であること、
- しかし導入の準備が大幅に遅れていて、予定どおりの導入が危ぶまれていること、
- そしてこの懸念が元となって、国循の内藤博昭病院長から、本研究室の前教授に対して、医療情報に詳しい人材を推薦してほしい旨の相談があったこと、
- 前教授は,内藤病院長に対して,部長として私が適任であると推薦したこと、
などという状況がわかりました。
松村教授が困惑されていたのは,たしかにこれは悪い話ではないが,私が大阪大学に着任してまもない時期であったことと,次のような懸念事項
- 提示されたポストが5年間の任期付きであること、
- 国循には、すでに何年か前に、医療情報の専門家として熊本大学から招聘されたT先生が室長として着任しており、今後、国循がT先生をどのように処遇するつもりなのか不明であること,つまりT先生がそのまま残るとすれば、医師であるT先生よりはるかに年下で、医師でもない私が、T先生より上位の職に就くことによって、職場での人間関係が複雑になること、
があったからなのでした。
私は、松村教授の話を聞いてから数日間ほど悩みました。というのも、私の知人で、国循の内情をよく知る医師たちからは、
国循の医者は、全国のいろいろな医局から集まってくる『烏合の衆』の集団で、皆がそれぞれ好き勝手しているから統制が取れなくて大変だよ
であるとか、
阪大医局の割り当て人事で、一番人気のないのが国循だよ。人を働かせるだけ働かせてポイと捨てるようなところだよ
などと言われ、少なくとも自分の周りで国循のことを良く言う人は一人も居ない状況であったからでした。
しかしながら、自分としては、国の最先端医療を担う国循が「外部に人材を求めるほど困り果てている」状況をみて、医療情報の専門家の端くれとして放ってはおけないと思ったのでした。
私は,この話を受けることを決め,松村教授に、私の諾意を伝えたところ、松村教授は、
そうだね、この話、そもそも断るのは難しい話だね。
とおっしゃったうえで、
まあ、国循は、大阪府の豊能二次医療圏の主要な病院の中で、未だ電子カルテが導入されていない唯一の病院だから、相当に遅れているのだろう。国循の中をまとめるのはなかなか大変だとは思うが、部長ということであれば、桑田君ならできると思うよ。
と励ましてくださいました。
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